学級通信のすすめ 京都府立◯◯高校・土肥謙一郎  私は、教員になって今年で一三年目である。そのうち八年、担任をしてきた。現在は三年生の担任をしているが、この三年間、週一回「学級通信」を出してきた。そのなかで、多くのことを学ぶことができた。 なぜ学級通信をつくろうと思ったか  教員になって一〇年目、私は担任として二回目の卒業生を出した。その卒業生の中には、私が担任した在日朝鮮人のSや、部落出身のTがいた。彼らとは朝文研活動や隣保館の学習会の場でずいぶんと話し込んだ。そしてSは一年生のクラスで本名を名のり、Tは二年生のクラスで自分の出身を語った。彼らは自分のことを話しながら、異口同音に「これから一緒に差別のことを考えていこう」とクラスのメンバーに訴えかけた。しかし、クラス全員が、その訴えをきちんと受けとめられたわけではなかった。クラスのなかに、彼らを受けとめる「空気」が充満していなかったのである。  城陽高校の「『同和』教育指導方針」には「クラスの日常活動の中に『同和』教育を位置づける」と書かれている。しかし、実際には六月と一一月におこなう「同和」学習でしか、人権について語ることができない。毎日昼休みのあとおこなう一〇分間のショートホームルームでは、各分掌からの諸連絡がたくさんあり、ゆっくりと語る時間がとれない。週一回のロングホームルームも「○○学習」などで埋まっており、独自の内容にとりくみにくい。また、とりくんだとしても、生徒にとっては系統性がなく、食いついてくるとは思えない。どうしてよいのかわからなかった。  ちょうどそのころから、全同教大会に参加するようになった。そこで、すばらしい実践に数多く出会った。とくに、クラス全体が変わっていく実践に、大きな魅力を感じた。そんな実践の補助資料には、必ずと言っていいほど膨大な「学級通信」が載せられている。そして、「学級通信はクラスづくりのイロハ」というような発表がある。少しひるみながらも、ここからはじめるしかないと思いはじめた。 まずは基本スタイルをつくろう  三年前、三度目の一年生の担任を持つことになった。入学式の前日、少し意気込みながらはじめての通信「一年七組学級通信第一号」をつくった。私の自己紹介とクラスに臨むにあたっての抱負、クラスのメンバーに求めることなどを書いた。意外と簡単にB4の紙一枚が埋まった。はじめてのホームルームで生徒に配布しながら、「これから一年間、週一回のペースで出していくし」と宣言してしまった。これで後には引けなくなった。  いつまでも行き当たりばったりではすぐに行き詰まる。とりあえず基本になる「スタイル」をつくろうと思った。まずは「当面の日程」のコーナー。このコーナーで翌週一週間の予定を書く。と同時に、それぞれの行事の城陽高校での位置づけや、ちょっとしたコメントを書く。次に「来週の掃除当番」のコーナー。彼らは、結構放課後は遊びやバイトなどで忙しい。また、一緒に帰る約束をしていることもある。あらかじめ前の週から翌週が掃除当番であることを知っていれば、計画を立てやすいだろうとの配慮である。これで、だいたい紙面の半分が埋まる。あとは、クラスに対して感じたことをゆっくりと書けばよい。以降三年間、ずっとこの基本スタイルで出し続けた。 二年目の壁  一年目は、生徒も高校について知らないことがいっぱいある。私としても、白紙の状態の彼らに伝えたいことがいっぱいあった。  ところが、二年生の担任になって、言葉に詰まってしまった。何を書いても、去年の二番煎じのような気がする。クラス替えがあったので、ほとんどの生徒はそうは思わないはずなのはわかっていた。どちらかというと、私の方に問題があったのだと思う。一年目に書いたものを読むと、書きたい熱意が紙面にあふれている。二年目の五月頃にスランプに陥ってしまった。  そこで、紙面を埋めるために、「今週の新聞記事から」という連載記事をつくることにした。また、一年生の時から生徒からいわれていた「来週の誕生日」というコーナーをつくり、誕生日を迎える生徒に一言コメントをするようにした。 クラスのことがよくわかる  一年目は、自分の考えを生徒に伝える「学級通信」だったように思う。しかし、そんなものはすぐにつきてしまう。二年目は、確かに「今週の新聞記事から」のおかげで、社会で起こっているさまざまな出来事について書くことができ、私なりの問題意識やものの考え方を書くことができた。しかし、それだけではクラスのことにまったく触れることができない。また、「来週の誕生日」のコーナーの生徒へのコメントも、その生徒のことをよく知っていないと書けない。そこでクラスにネタ探しをしに行くことになった。用事があろうとなかろうと、とにかく教室に行く。「先生また来たんか」とあきれられた。  たとえば、クラスの生徒に用事があるとき、放送をかけて職員室に呼び出す教員がよくいる。しかし、そんなときはネタ探しの絶好の機会である。クラスに行き、そこにいる生徒に聞く。すると「さあ、知らん」「あっちで見たで」など、さまざまな反応がある。「あっちで見た」情報をたどっていくことで、彼らの人間関係や、学校のなかのテリトリーがわかるようになった。  昼休みに教室に行くと、みんなでご飯を食べている。そこでクラスのグループの状態がわかる。昨日まで一緒に食べていたのが、今日は別の生徒と食べている。グループが変わったのがわかる。他のクラスで食べているものもいる。その子がクラスに根づいていないことがわかる。  こんなことがあった。いつも他のクラスの男子生徒と一緒にいるクラスの女子生徒がいた。自然とクラスの輪から外れていく。ちょっと気にしていた。ところが二学期途中から、彼女が女子生徒同士で話していることに気づいた。ちょうどそのころ、彼女の早退が増えたことにも気づいた。ある日、彼女が「体調が悪い」と訴え、早退届を持ってきた。「うん、早退届、出してもいいけど…、それより彼氏と別れたん?」と聞くと、ドキッとした顔をして、しかし「うん」と泣きはじめた。「そうか、じゃ、職員室でおいちゃん(私は自分のことを、よく「おいちゃん」という)としゃべるか?」と聞くと、素直についてきた。ちょっと自分の失恋話などをして、彼女を見送った。  数日後、彼女は「なんとか立ち直ったし」と笑って話しかけてきた。それ以降、彼女はなんとかクラスの中に位置づこうとしている。彼女はクラスをよく見ている子で、私にとっていまやクラスのネタの情報源でもある。ちなみに、最近どうやら彼氏とヨリを戻したらしい。通知票と一緒に送った手紙に「ヨリを戻したん?」と書くと、「より戻ったのよ〜ん。HAPPY」という手紙が返ってきた。  ある日、生徒から「先生、私らのこと、何でもわかっているような気がしてこわい」と言われてしまった。 クラスに課題を出すことができる  よく職員室に生徒を呼びだして怒っている教員を見かける。例えば、掃除をさぼったことに対する注意や、授業態度に対する注意などである。私は、教室に行ったついでに、これらのこともやってしまうようになった。たまには生徒とケンカになることもある。しかし、生徒にとって「敵だらけ」の職員室よりは、はるかにケンカになる回数は少ないし、話もよく通る。まわりで見ている生徒たちも、彼らなりに公正な判断を下し、「今のは先生の言い方が悪い」とか「やっぱりあいつの方が悪い」とかジャッジしてくれる。すると、さらにジャッジをしてくれた生徒と討論ができるようになった。さらにそれが、私の価値観や問題意識を生徒に伝えるきっかけになった。  生徒との面談も、教室でやるようになった。もちろん、生徒のプライドを傷つけるおそれがあるときや、きわめてプライバシーにかかわるときなど、どうしても一対一になることが必要なときもある。しかし、そういうときにも、職員室ではなく、廊下や校舎内のベンチなどでおこなうことにした。話の内容によっては、他の教職員に聞かれたくないこともあるからだ。すると、生徒も結構「素」の話をしてくれるようになった。  しかし、一対一が必要なことはまれである。たいていは教室で話ができる。深刻そうな話の時は、彼らは近寄ってこないし「これはかめるな」と思ったら、どんどんかんでくる。進路で悩んでいる子の話などは、まわりの子がかんでくれた方が、話が進むことがあるくらいである。 クラスの課題を共有できる  こうして、ある生徒の課題を教室で話をし、まわりの子がかんでくることによって、その課題は、みんなのものになりはじめた。  私のクラスには、二年生の二学期に「部落民宣言」をしたMという生徒がいる。私は、彼女を三年間担任した。彼女は、一年生の最初から、私との間では部落の話ができる子だった。彼女は、徐々に信頼できる友だちに、自分のことを話すようになった。私は、はじめのうちは、彼女と一対一で部落の話をしていた。しかし、彼女が話した友だちが増えるにつれ、徐々に私もその友だちの輪の中で、部落の話をしはじめるようになった。  「今度の一〇月三一日な、学校休むし」と彼女が言ってきたことがある。まわりの友だちが「なんで」と聞いてきた。教室で、狭山事件のことを話すきっかけができた。また、彼女のグループがそういう話をしていると、他のグループの子も、それとなく聞いていることがわかる。すると、学級通信にクラス全体の話として、それを返していくことができるようになった。  「今日、駅でこんなビラ配ってた」と生徒が言ってきたこともある。あるいは私の方から「今度の『同和』学習、こんなことしようと思ってんねん」「今日の『同和』学習、どうやった?」などと聞くこともあった。部落の話が、いつの間にか教室の日常会話になっていった。 生徒同士の誌上討論ができる  「最近の生徒は討論ができない」とよく言われる。確かにそれは感じる。しかし一方で、彼らは実に「書く」ことが好きである。授業中もしょっちゅう友だちに「手紙」を書いている。もちろん、もらった「手紙」を読んでいるので、「読む」ことも結構好きである。  「同和」学習をはじめとして、「○○教育」とか「文化祭のとりくみをふりかえって」とか、彼らはたくさんの作文を書く(書かされる)。こうした作文を、できるだけ早く返したいと思っていた。「同和」学習では、翌週「事後学習」が設定されているので、返そうと思えば、全員の作文を返すことができる。ところが、それ以外のものは、返すタイミングがないため、ほとんど返せなかった。  ところが、学級通信をつくりはじめてから、常に作文を返すことができるようになった。クラスのメンバーが書いたものであるから、かなり興味を持って、熱心に読む。「同和」学習では、それをふまえて翌週の「事後学習」を迎える。「事後学習」では、よく「○番の作文に対してこう思った」という作文をふたたび書かせる。これをまた学級通信に載せる。こうして、作文のキャッチボールができるようになった。 親との話しあいのネタになる  家庭訪問や学級懇談会の場で親と話をすると「学級通信のおかげで、学校のようすやクラスのようすがわかって助かる」とよく言われる。学校の大切な文章を親に見せない子でも、学級通信をそれとなく自分の机の上や食卓の上に置いていたりするらしい。「学級通信を読むのを楽しみ」と言ってくれる親もいる。  「先生、『同和』学習に力を入れておられますね」とよく言われる。「今週の新聞記事から」のコーナーは、ほとんどが人権関係の新聞記事をあつかっている。「同和」学習の作文も、二〜三週にわたって載る。一年の学級通信のほとんどがそうした記事でしめられるので、そう思われるのだろう。「はあ…」などと言いながら、ムラの親以外の親とも、そうした話をするきっかけになった。  「こないだの学級通信でな、親と話してん」という生徒も何人かいた。「こんな人がいるんやけど、どう思う?」「こんな作文あったけど、どう思う?」などという会話が、生徒と親の間で交わされたらしい。「うちの親、差別せえへん人でホッとした」とか「うちの親、絶対許せへん」といった作文が、次の「同和」学習で出てきた。それをまた、学級通信を通じてクラスのなかに返していった。 おわりに  三年間、学級通信を出してきて、少しわかってきたことがある。はじめのうちは学級通信を出すこと、それ自体が目的だった。しかし、ネタがつきるにしたがって、徐々に学級通信はクラスづくりの手段に変わっていった。  今までは、「仲良しグループ」をこえた、クラス全体の関係をつくることが、なかなかできなかった。しかし、学級通信をつくることをとおして、クラスのグループ同志のネットワークができてきた。ちょうど「インターネット」のように。そして、グループ同志が結ばれて、クラス全体が互いを共有することができるようになった。  「学級通信」をつくることで、クラスの生徒と私の距離、クラスの生徒同士の距離が、すごく近くなっていったように思う。